私の子供は新生児の時に大病を患い、何時間にもわたる手術をしました。その頃の傷はしっかりと体に残ってあります。

病室には下半身不随の子、左手がずっと痙攣している子、意識がない子、など色々な子が入院していました。

なぜ、無垢な子供にそのような試練を与えるのか、なぜ神様は理不尽な運命を歩ませるのか全く分かりませんでしたし、恨みさえ覚えました。

でも、完治した我が子が元気に走り回るところを見ていると、神様の意図が見えてきた気がします。

今日は「神様からのメッセージ」についてまとめたいと思います。

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はじめに

はじめに:神様からのメッセージ

子供の大病に限らず、神様は理不尽です。震災で多くの人を殺めたり、世界では大勢の方が紛争で辛い思いをしている。

その悲しみや苦しみに意味はあるのか、不思議になる時が多々あります。なぜみんな幸せに暮らせないのかを考えると、神様はいないのではないかという無神論にたどり着きさえします。

では、こんな気まぐれな神様をなぜみんな信仰するのでしょうか。

私の家族に怒った災難

私の家族に怒った災難

息子が生まれて数ヶ月、便が白い状態が続き、詳しくエコーをとったところ腸内に異変が起きていることが分かりました。かなり深刻な状態であともう少し発見が遅れていれば、亡くなっていたであろうことも知らされました。

数時間に及ぶ手術を2回、息子は小さな体で耐え続けました。

手術は成功しましたが、長期の入院を強いられました。

病室には色々な大病を患っている小さな子供がいます。私はその空間から「悲しさ」しか感じられませんでした。

親にとってみれば「なぜ私の子供だけ……」という思いでいっぱいだったと思います。

神様は悲しい出来事から何を学べと言っているのか

神様は悲しい出来事から何を学べと言っているのか

それは「人生は思い通りにならない」ということです。人生は四苦八苦からできているということでもあります。

不幸になろうが幸福になろうが、それはあなたの行動が起こした結果です。神様は空から見守っているだけです。

私の子供が大病を患ったことも、その子にとっての「苦」であり、意味のあることだと言えます。実際、私自身辛い体験を乗り越えた時、家族が健康であることの有り難みをヒシヒシと感じました。

神様はそんな「気づき」を与えてくれる存在だと考えています。

神様を信じるべきか

神様は信じるべきか

藁をもすがる思いの人は毎日お祈りをしているでしょうし、礼拝が日課になっている方もいらっしゃるでしょう。

個人的な意見としてですが、私は神様が人を救うということはあまり感じていません。結局は自身の行動次第で人生は切り開いていくものだと考えています。

「辛い時は神に祈り・うまくいっている時は感謝する」というライトな考え方で構わないと思っています。

「なぜ悪いこともしていないのにこんな目に」といったシチュエーションでも、その中で何か気づくものがありますよと言ったお告げと理解するべきでしょう。

万物には全て意味があります。「なぜ」を探求することこそが人間の成長に繋がるものなのです。

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神様には2種類ある

私は神様には2種類あると考えています。

  • 仏様・キリストといった偶像崇拝
  • 個々の心の中にある神

詳しく見ていきましょう。

仏様・キリストといった偶像崇拝

宗教によって崇め奉られている神様のことです。如来やキリストなどが有名ですね。

私は子供の手術の一件で偶像崇拝については、あまり信じられなくなった期間がありました。今でこそ仏壇に手を合わせたり、お寺や神社に参ったりしていますが、神様の行いに腹が立った時期があったのです。

当時私は、神様はラッキーを運んで来てくれるものと勘違いしていたわけです。

神様は良いことばかりではなく「業」も与えます。

「業」とは広義的にいうと悪い運命とも捉えることができます。すなわち、試練を万物平等に与えるわけです。

個々の心の中にある神

困った時やピンチの時に「助けて!」と心の中で祈るのが、個々に宿る神様です。宗教や人種関係なくこの神様は心の中に存在します。

私は「心の中に宿る神様」こそ、大切にし従ったほうが良いと考えます。

心の中の神様は、あなたの生育歴・教養・倫理・常識などによって構成されます。培ってきた経験と言ってもいいでしょう。

もし、10分時間があれば「心の中の神様」と対峙して、自分はどうありたいのかを瞑想するといいと思います。

では業を回避するためにはどう生きれば良いか

業とは悪い運命ということは先述しましたが、それを避けるにはどうすればいいかを挙げてみたいと思います。

  • 強欲にならない
  • 人を陥れたりしない
  • 悪態や悪口を行わない
  • 無駄な殺生をしない

詳しくみていきましょう。

強欲にならない

人間は欲深き生き物です。「お金が欲しい」「異性からチヤホヤされたい」など欲をあげればきりがありません。

欲は自身の視野を狭くし、悪運を引き寄せます。人は欲を一つ叶えてしまうと、次から次へと新しい欲が生まれていきます。

「本当は何が必要か」「手に入れることよりも大切なことは何か」を自分に問いかけましょう。

人を陥れたりしない

人を陥れることは、結局は自分が不幸体質になってしまいます。みなさん気に入らない人は1人2人いるかとは思いますが、寛大な心で付き合うことが大切になってくると思います。

「苦手な人だから、嫌がらせをする」なんて人は、神様など関係なくバチが当たるので自分を律するべきですね。

心の狭い人に同調する必要性は全くありません。

悪態や悪口を行わない

言葉にはその人の霊気が込められます。ポジティブで思いやりのある言葉を常に使っていると、それ相応の豊かさが待っています。

しかし、ネガティブな言葉ばかり口にすると自分自身から運気が遠ざかります。

気に入らないことに陰口を言いたいのは分かりますが、それを発する時は誰もいない場所で言葉にするのがベターです。決して人を傷つけることのないようにしたいところです。

無駄な殺生をしない

生き物を意図的に殺めることは、どの宗教でもタブーとされています。バイブルに書いてあるからと言う理由ではなく、無駄な殺生は倫理的かつ運勢的に大きなマイナスとなります。

大人で生き物を殺す機会はないでしょうが、もし自分の子供が生き物を殺生していれば、なぜ殺めてはいけないかを説きやめさせましょう。

神様が人生を作るのではなく、自分が切り開いていく

神様が人生を作るのではなく、自分が切り開いていく

ガンディーのメッセージでこのようなフレーズがあります。

「世界に変化を望むなら、君自身が変化そのものとなれ」

自身の身の回りの変化は自分自身が作っていくものであり、誰かがお膳立てしてくれるものではありません。もちろん神様も人生を作ってはくれません。

つまり、人生に何か変化を持たすなら自分自身が行動を起こさないと始まらないのです。

一生懸命拝もうが、讃えようが、最終的にはあなた自身が変わらないと意味がないということですね。逆境に足がすくんでしまった時は「自分の人生は自分が変える!」という意気込みでピンチを乗り越えるべきでしょう。

私も大きな問題に差し掛かった時、「もうだめだ」と足がすくみがちです。しかし、乗り越えるのは自分であり、その先には幸せが待っていると思うと「ちょっとずつ登ろう!」という気になりますね。

まとめ

今回は神様の話でしたが、神様は「幸にも不幸にもしません」ただ見守っていてくださるだけです。宗教を否定するわけではありませんが、結局は自分自身の覚悟の問題だと思います。

お参りの時も、欲を伝えず「頑張るんで見守っていてください」と唱えたほうが、神様も「頑張れよ!」とちょっと勇気を貰うかもしれませんね。